眠っているのか、釣りをしているのか。
誰もいない釣堀で糸を垂らす老人がいた。
「釣れますか?」
網フェンス越しに声をかけると、老人はゆっくりと頭を上げた。視線を泳がせ、私の姿を見つける。
「おらんです」
私の質問に答えたのか、聞き間違いなのか、判断がつかない。それくらい小さな声で口が動いた。なぜか不思議と、くっきり聞こえたのだが。
私は改めて老人に質問をした。
「魚は釣れますか?」
「だから、おらんです」
今度は、さっきより大きな声で答えられた。竿を置き、私の前まで歩いてくる。
「代わりにされますかな?」
フェンスに顔が付くくらい、老人は前かがみになる。私は数歩後ずさりながら、首を横に振った。
「い、いえ。お金持っていませんから」
「でも、暇なんじゃろ?」
「まあ、暇ですが」
暇を持て余して、老人に声をかけたのだ。
「何、ここなら構わんよ。さっさと入ってきなさいな」
老人は手招きをすると、開けっ放しにされた入口を指差した。
老人は自分の持っていた竿を私に渡す。それから誰もいない事務所に入ると、餌と竿を持って釣堀にやってきた。
「良いんですか?」
私の質問に、
「わしの釣堀だからの」
と答えた。
それから数日。私は朝から晩まで老人に付き合った。日が昇ると老人はそこにいて、私が帰っても同じ場所でずっと糸を垂らしている。
日曜日になった。老人はそこにいなかった。
「お客さん。勝手に入ってたでしょう?」
私は従業員にこっぴどく怒られた。警察を呼ぶかの一歩手前で放免された。
かの老人は、一日一回、私が来るとこう言っていた。
「一日幸福でいたかったら、床屋に行きなさい。
一週間幸福でいたかったら、結婚しなさい。
一ヶ月幸福でいたかったら、良い馬を買いなさい。
一年幸福でいたかったら、新しい家を建てなさい。
一生幸福でいたかったら、釣りを覚えなさい。
そんな大陸の古語があるんだよ」
と。
翌日、締め切られた平日の釣堀に、やはり老人の姿があった。
私は網フェンス越しにその姿を見て、何も言わなかった。そして、老人も私など知らないように永遠と釣り糸を垂らしていた。
彼はいま、幸せなのだろう。