余る部品。

『形にする』と言う行為は、様々な”部品”を組み上げていく行為。
或いは、元の素材を削り、切り取っていく行為だろう。
そんな痛みを想像したら、途端に身の回りにある物が愛おしくなった。
そして怖くもなった。
毎日好んでする料 理 、隙あらば整 理 をしている私。
理 性で持って、形作る術。
それが人間の術なのだろう。

これは、『刺身が泳いでいる』そう思ってしまう子どもがいるように、
出来上がった形の中にい続けると、何かのバランスが崩れてくることを想起する。

人間には、様々な力があると思う。
目の前に広がる世の中とそこにある素材に向き合い、自らの糧にしようと”形”を作る。
それは時に暴力的な力を使わなければならない。と言うか、自分に合った形にするには、組み上げる力や、削ったり、切り取っていく凶暴さも兼ねなくてはならないと言ったばかり。

暴力的、凶暴さ。
現代の価値観を揶揄すると、力を込めることすらこのように表すことができる。
これが、私に感じさせた最初の痛みの原因かもしれない。

それは、私自身、素材だからだ。
人も一つの素材である。肉体も精神も、無限の可能性を秘めて〜なんて安い言い方ができるほど、無数の成長を期待できる。
時に自然として、怒りや憤りを抱くことも私の成長である。悲しみや後悔を抱くことも私の成長である。喜びや愉悦に浸ることも私の成長である。

他者の言葉とは、それらを削り、切り取り、別の形に組み上げる術となる。
洞察深い小説家の言葉なら、壊れたガラス破片を拾い上げるような、私の心を組み上げる救いの手になるかもしれない。けれど、心無い教師の言葉なら、包丁を心臓に突き立てるような、私の急所を貫く凶刃と化すだろう。

素材のままが好きな訳ではない。
形にするという行為に人の理性が滲み出る素晴らしさも知っている。

しかし、形を作る部品である限り、必ず削られて、切り取られている。
形から除かれた部分、削られた部分、切り取られた部分は塵芥でしかない。
私たちにとって、そこは無に等しい。
この事実に、愛おしさと怖さの両方が感じられたのだった。

2013年05月19日08:27 『余る部品。』   web拍手 by FC2




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